築地中央卸売市場の開設前夜に生まれた「東京魚市場青年会」。昭和6年に結成されたこの会が、NPO法人築地魚市場銀鱗会のルーツです。
銀鱗会の名で親しまれてきた当会の歴史を、ここにさかのぼり、築地市場の歴史とともにご紹介していきましょう。
なお、資料は銀鱗会の機関誌「銀鱗」を軸に、そのほかすべて当会が運営する銀鱗文庫所蔵のものを使用しております。
-激動の戦前編-
昭和6(1931)年、「東京魚市場青年会」誕生
当会の歴史は、昭和6年に結成された「東京魚市場青年会」にまでさかのぼります。
東京魚市場青年会とは、築地中央卸売市場開設前夜、市場史中でもっとも揺れ動いた時代を背景に、志高き市場の青年層が結成した団体です。そこで、まずは青年会誕生の昭和6年ころにご案内しましょう。
大正12(1923)年関東大震災により焦土と化した東京市は、昭和5年、華やかに帝都復興祭を催します。イルミネーションで輝く銀座、賑やかな花電車、パレード。それは東京の街がみごとに立ち直ったことを広く知らしめる一大祭典でした。
しかし、そんな祭典をしり目に、大きな遅れをとっていた復興事業がありました。それが築地中央卸売市場の開設です。中央卸売市場とは、価格決定がむずかしい生鮮食料品のための市場で、大正12年に公布された中央卸売市場法という法律のもとに開く公設の市場のことです。
すでに京都市は昭和2年に、大阪市は6年に開場します。東京市が遅れをとったのは、その規模もさることながら、いろいろな問題が重なっていたからです。
この築地中央卸売市場の魚類部には、日本橋魚市場の組合員が入ることになっていました。
その日本橋魚市場は、関東大震災で壊滅状態となり、築地の海軍省の敷地で営業を再開します。
そして、この同じ敷地に、中央卸売市場が開設されることになるのです。莫大な建設費用の多くは、帝都復興事業の一環とみなし、その予算から捻出されることになっていたのでした。
中央卸売市場建設に向けての用地買収は、さほど問題もなく、着々と進んだようです。敷地内の海軍関係の施設は徐々に立ち退き、広大な春風池、秋風池も埋め立てられます。池があった場所は、寛政の改革で有名な松平定信が役職を離れたのちに住んだ屋敷跡でした。
日本橋魚市場の組合員たちは、当初は岸壁近くのバラック同然の建物で営業していましたが、昭和5年、海軍軍医学校があった場所(海幸橋から入った広場あたり)に、木造平屋の建物、35棟が建ち、そこに移ります。青年会当時からの会員守田守氏(平成19年没)は、この施設を「最後の日本橋」と語ってやみませんでしたが、「い」から「み」までの棟が碁盤の目のように並ぶそこには、問屋18、問屋兼仲買753、仲買523が混在、日本橋時代の商習慣そのままの日々が営まれていました。
そのかたわらで、現仲卸棟の地鎮祭がしめやかに催され、やがて耳をつんざくような工事音が終日響き始めます。昭和6年5月からのことです。一方、ソフト面でも中央卸売市場の経営や運営に関する事項がさかんに審議されていました。ことに「一市場一営業者制」という中央卸売市場法をめぐり、卸会社の数をどうするか、大きく揺れていました。卸会社を1社にするか複数にするか、これは単複問題と呼ばれ、やがて買出し人の不買運動が起きるなど、大きな社会問題にまで発展します。
この事業は、要するに群雄割拠の問屋群(昭和6年において、前述のとおり問屋18、問屋と仲買兼業753)を、法のもと、ひとつの会社としてまとめようとする一大改革であり、日本橋時代に営々として築いたシステムの崩壊です。それが、工事の進展とともに現実味を増していきます。多少の差はあれ、だれもが将来に不安を抱えていました。そんな空気のなか、市場の青年層が結成したのが「東京魚市場青年会」です。彼らは、市場問題を研究、情報をわかちあう手段として、機関紙「銀鱗」を精力的に出版。この機関紙を中心に、おおいに活動を展開していきます。
産みの苦しみを経て、中央卸売市場開設
贈収賄、疑獄事件、不買争議。筆舌につくしがたい産みの苦しみを経て、中央卸売市場が開設します。「銀鱗」昭和10年の新年号の巻頭言は「市場革命時の新春を迎えて」、論説ページは「中央市場収容後における従業員対策」、組合長ほかの年頭挨拶にも緊迫感が漂っています。
この年の12月、東京魚市場組合は、歌舞伎座で盛大な解散式を行い、江戸から昭和へと4代にわたった歴史に幕を閉じます。そして翌11年1月から本格的な業務を開始。問屋(卸会社)、仲買人はここではっきりと線引きがなされました(仲買人は1296名)。しかし卸会社は組合員の出資で生れた会社です。中央卸売市場へと継続された「青年会」には、卸会社である東京魚市場会社の社員もいました。お魚かるたを残した長谷川秀雄氏もその一人で、「銀鱗」でも健筆をふるいました。
仲買解散、そして青年会も消滅
もめにもめた中央卸売市場も12年ころには安定します。しかし、戦時色がしだいに色濃くなっていきました。「銀鱗」には外地へ出征した会員の手紙、出征入営する者は会に届けよ、といった記事が目立ってきます。青年会の会員たちは次々に戦場へと駆り出されたのです。昭和14年、国家総動員法が発令され、物価統制が始まり、16年10月、国策として仲買人制度は廃止に。それにともない青年会も自然消滅しました。紙にも事欠いたのでしょうか。粗末な紙に印刷された昭和16年3月号の「銀鱗」には、青年会最後であろう名簿がのっています。会員275名、出征・入営者31名。現会員のお父様、お祖父さまに当たる方たちの名も見えます。
敗戦。そして仲間が帰ってきた
昭和20年8月に敗戦を迎え、日本は戦後の混乱期を迎えます。物価は高騰し、そのため水産物も戦後の配給統制が続きます。そんななか、戦時中に病院、給食、業務筋、軍などの大口配給に従事していた旧仲買人の手で、大口の需要に対する配給の仕事が獲得されました。そして紆余曲折の末、昭和22年「魚類大口消費組合」を設立。仲買人制度復活に向けての活動を開始します。それからの仲買人復活への道のりは、決して平坦なものではありませんでしたが、ついに昭和25年、4月1日をもって、水産物の統制解除。仲買人復活となりました。この年の7月8日、再び業務開始、10年ぶりにセリの声が市場に響きました。
あの青年会の仲間も続々と築地に戻ってきました。戦争で失った仲間をいたみ、復員してない仲間の安否を気遣うなかで、彼らは再度の会結成をめざしました。問題になったのは、会の名前です。創立してからすでに20年近く、会員たちは青年から壮年といってよい年代となっていました。
そこで会の名前を、あの意見を戦わせた懐かしい機関紙「銀鱗」の名を、会の名としたのです。
-戦後編-
昭和26(1951)年2月、銀鱗会創立
会員数260名。仲買、および卸会社の社員も交え、昭和26年2月、会は再スタートします。この年の4月20日、機関紙「銀鱗」発行。タブロイド版ですが、ニュースとして1700名余の仲買人が大同団結、26年3月31日に総会を開き、松永寅吉氏を組合長に、「東京魚市場仲買組合」が結成されたこと、セリ時間の変更、組合組織の陣容などを伝えています。こうした市場の諸事項を、仲買の組合を支援する立場で「銀鱗」紙上で報じるその役割は大きかったそうです。なお「銀鱗」初代編集長は、市場について数々の著書も残した故尾村幸三郎氏。以後、15年にわたり編集長を務めました。
豪華な執筆陣は、市場史そのもの
創刊2号26年6月発行の「銀鱗」巻頭の執筆者は誕生なった東仲組合(東京魚市場仲買組合)の組合長、松永寅吉氏。「銀鱗会の諸君に與う」として仲買人は「市場における最重要部門である魚価の決定、公価操作を預かる重責があること」を強く訴えています。
同年9月発行の3号では、当時7,000軒以上を数えた魚小売商の総帥である魚商組合理事長塩澤達三氏が、買出し人を代表して堂々の論をとなえています。歳末に発行された4号は、東都水産社長田口達三氏。戦前は東京魚市場組合の組合長、そして単一卸会社の社長を経て、東水の社長となった同氏は、終戦からの市場の流れを綴っています。塩澤、田口、二人の達三氏は、中央卸売市場開場時代、市場をゆらした不買争議の両雄。雨降って地固まる。両雄が時を経ずして、巻頭を飾る、というのも、市場問題に熱心であった銀鱗ならでは、といえましょう。
馬人、千草秋夫という銀鱗を支えた執筆者
馬人とは、銀鱗編集長を務めた尾村幸三郎氏のペンネーム。千草秋夫とは、中央魚類の元社長加藤弘氏。ともに故人となられましたが、その最期となるまで、銀鱗紙上で健筆をふるいました。馬人氏の快刀乱麻、バッサバッサと市場問題に切り込んでいくのに対し、千草氏は穏やかな、文学青年らしい格調と叙情性豊な随筆を多く寄せています。それぞれの味わいは異なろうとも、ともに銀鱗の心を体現し、当時の市場内に多くの読者を持っていたそうです。千草氏は、やがて昭和56年「築地市場よどこへ行く」と題して、市場移転問題についての長文を発表。今日でも、改めて読み直したい示唆多き論文です。
福引で大賑わいの新年会
仲買協同組合日本間集会所で行われた新年会は福引や余興で大賑わい。また親睦のために春秋の旅行会も行われました。現在、旅行会は中断されていますが、福引つきの新年会は銀鱗会恒例の行事として続いています。
日曜休市制の実現に向けて
「銀鱗」は紙上において、会の主張を広く市場人に伝える役割も持っていました。なかでも創刊2号で触れ、翌27年5月には巻頭で大々的に発表した日曜休市論は、新鮮でした。当事、市場は月3回、2の日が休み。しかし世間は日曜が休みであり、日曜の売れ行きは最悪。銀行も休みなので、日曜の売り上げは月曜まで保管しておかなくてはならない。
また家族がそろって休みとなるのは、日曜と2の日が重なるときだけ。こうした弊害を説き、日曜を休みに、と主張したのです。
しかし賛同は得られたものの、実際には遅々として進まず、業を煮やして昭和32年には再び巻頭で「合理主義か封建主義か」のタイトルで強く主張。33年新春号は、日曜休市実現特集号を発行。市場長飯田逸治郎氏、中央魚類相澤喜一郎氏、東仲理事長松永寅吉氏ほかの意見を展開します。そして昭和37年、ついに日曜週休制が実施されました。くしくもそれは銀鱗会が10周年を迎えた年。実に10年にわたっての論争の末に勝ち得た日曜休市でした。
青団連設立に奔走
昭和29年には、各業会(大物ほか8団体)の青年会を1本にまとめるためにも奔走。「東京魚市場青年団体連合会(略称・青団連)」設立となって実を結び、7月25日講堂において創立総会が開かれました。会長は、銀鱗会会長の内山弘一氏が指名されました。なお、上記8団体は以下のとおりです。
- 親和会(大物)
- 若芝会(エビ)
- 一新会(大物)
- 朋友会(上物)
- 曙青年会(塩魚)
- 潮友会(干魚)
- うず潮会(竹輪業)
- 銀鱗会
昭和30(1955)年、銀鱗会事務所オープン
念願の事務所開設。木造平屋建て、健康保険組合診療所の隣の1室がわりあてられ、活動の中枢が誕生。「商業主義を基盤とした建物ばかりのなかに本会のような文化団体の事務所が設立されたことは、炎天下にひとすくいの冷水を得たごときで愉快」と銀鱗の編集子はつづっています。
機関紙「銀鱗」を通じて市場問題を追及
日曜休市論だけでなく、のちに決済センターとして実を結ぶ「共同精算所問題」のほか「店舗抽選の方法」「仲買人法人化の問題」「コールドチェーン」「大井市場への移転」「労務問題」等等、座談会や講演会を開いて正面から取り組んでいました。
昭和34(1959)年9月、新事務所に移転
豊洲移転まで使用していた事務所へは、この年に引っ越してきました。まだ図書の設備はありませんが、役員は図書室新設に意欲を燃やしています。旧事務所より広くなり、当時流行の名曲喫茶をまねたレコードコンサートをさかんに開いていたのはこのころでした。
昭和35年設立10周年事業として銀鱗文庫設立
当時も銀鱗会はビンボーで、「記念式典をやっても、ささやかな記念品にビール1本というのが関の山。それならいっそ式典をやめ、のちに残る有意義なことをやろう」、と決まり、銀鱗文庫(図書室)の設置を決定。東仲理事長石宮氏、香魚会の寄付金で新刊本を購入、東仲組合の蔵書を譲り受けるなどして準備をすすめました。そして、昭和35年開館。その後、着々と蔵書を増やしていったのでした。
昭和45(1970)年、銀鱗文庫を一般に開放
銀鱗会創立20周年の記念事業として図書室を銀鱗文庫の名で市場人に広く開放。オープンにむけて壁の塗り替え、床の張替え、書庫の新設と、おおわらわで準備したようです。レセプションが行なわれ、100人ほどがお祝いに集まったとか。当時の蔵書は水産関係というより文学全集や気楽に読める小説がほとんど。個人ではなかなか新刊本を購入できなかった時代だったのでしょう。この傾向は平成に入るまで続きました。
バスハイクや一泊旅行も
この時代は春秋にはバスハイク、また総会は1泊旅行をかねて箱根や熱海で行なっていました。それだけ余裕があったのでしょうか。また市場内の各団体(茶屋組合、魚商組合など)、水産・市場関係の新聞記者との座談会が主たる活動でした。
創立25周年事業として銀鱗縮刷本発刊
昭和53年、銀鱗会創立25周年記念として昭和26年の創刊から50年まで52冊の銀鱗を縮刷本上下2巻として発刊。今読み返してみると、仲卸の視線でみた築地市場のさまざまな問題が記され、昭和の築地資料としては第1級のものといっていいでしょう。
-平成編-
平成10(1998)年、「お魚かるた」の復刻発売
戦前、市場の子供たちが遊んだお魚かるた。思い出を組合の月報につづったことから、話がはずみ、復刻版が誕生。親しみやすい挿絵、魚の特徴を的確につかんだ読み札。また大戦まじかの時代色もしのばれ、昭和の匂い濃い内容で、地方へも郵送販売していました。
平成14(2002)年、パソコン教室
銀鱗会事務所の片隅にパソコンを2台設置。パソコンの初心者教室を開きました。電源の入れ方からスタートし、収支決算まで行なえるというきわめて市場にふさわしい内容で、2年ほど続きました。
平成15(2003)、年「子供魚料理教室」開催
3月と9月、築地場内魚商のキッチンスタジオで小学3年〜中学1年までの子供を対象に魚料理教室を開催。教材はアジ、スルメイカ、サンマなど。試食では、子供たちのおいしいという歓声でいっぱいでした。
平成16年(2004)、魚勉強会開始
この年は6月に子供魚料理教室を開催。そして10月に仲卸対象にカキの勉強会を開催。子供魚料理教室で学んだイベント組み立てのノウハウを生かしながらの勉強会でしたが、成功裡に終了。以後、銀鱗会は魚勉強会の回を重ねていくことになります。
平成17(2005)年、NPO法人認可
3月16日をもって認可されました。理事長は粟竹俊夫に決定。
平成17(2005)年、第2回魚勉強会
ホタテ貝をテーマに開催。勉強会は令和5(2023)年現在で28回を数えています。[これまでの勉強会のテーマ]
平成19(2007)年、「おいしいかい(貝)の日」
ノロウイルスによる感染症が万延。カキに対しての風評被害が広がり、売れ行きが激減。これに対して当会はカキへの正しい知識を広報するために一般消費者を対象に市場内でイベントを企画。オール市場、全国のカキ産地が手を結び、大きな催しになりました。
-令和編-
引き続き執筆中